grade陽一郎園の歴史
(渋川広域地区で陽一郎の従兄弟の羽鳥氏がいちごを初めて導入して 一年後のことでした。)
その当時は石垣いちごから始まりました。
苺を作り始めた当初、主品目は酪農や葡萄、米、養蚕でまだ日本で始まったばかりの、何の知識も無いいちご作りから始まりました。
当時の品種は‘ふくば‘と言う品種で、いちご一粒一粒に袋をかけ、収穫時に袋を取ると、うどん粉病で売り物にならなかったり、露地のため腐ってしまったり、苦労の連続だったそうです。
始めた当初7~8人いた樽いちご組合員も、いちご作りの難しさや大変さで一人抜け二人抜けで、今現在の4園のいちご園で落ち着きました。販売用の箱も今では嘘だろ!と思うような木箱で、しかも釘を打ちつけ手作りで一箱一箱作ったそうです。
当時のいちごの価格はすごく高価でいちご一箱が大工さんの一日の日当と変わらなかったそうです。
その高価ないちごを陽一郎は背負子(背中に背負う道具)に背負って電車(上越線)に乗り東京の市場まで運んだそうです。
それから数年経ち、いちご作りの技術も少し進み、いちごの品種も‘ダナーへ、ダナーから宝交早生‘に変わり、収量も増えましたが収穫の重労働は増し、仕事は細かく大変さも増したある年、陽一郎は他県で始めた観光いちご園を自分もやってみたいと思いました。
およそ昭和45年頃より意気揚々と始めたいちごの摘み取り(観光)も最初はぜんぜんお客さんが入ってくれずそのまま腐っては整理することも多かったそうです。
しかし地元に在住の読売新聞の記者の目に留まり話題性があると記事に載せていただきそれからは間に合わないほどお客様が増えたそうです。(良かった~!)
それから数年後でしょうか・・・いちごの長期かぶれと言う作型を導入し、10月中に誰も出荷しない時期のイチゴ作りにもチャレンジしました。がパイオニアとしての栄光はけして儲けと比例するとは限りません。大失敗で1年目が終わりました。
ちなみにその年の最初の数箱のいちごは一箱が1万円したそうです!
昭和も平成に変わる頃、当時作り始めていた女峰を早い時期に収穫できないかチャレンジしました。
当園では冷水耕と言う施設を使い10月下旬より女峰の早出しに成功しました!
当園が出荷していた群高青果ではまだ誰も出荷していない時期で、当時就農していた私が市場に搬送しましたが、まるで「いちご様」と言った扱いでした。
それから約10年経ち何か面白い取り組みはないかと考えていた父と私は全国でもまだ始まったばかりの人工培地による高設栽培を導入しようと決めました。
これは観光いちごの世界では画期的なもので今も半数以上のお客様に喜ばれております。
現在陽一郎園では高設栽培4棟、土耕栽培5棟、育苗ハウス2棟、その他育苗施設など、持てるまでになり、2005年より農業生産法人に登録することができました。
観光いちご園を始めた当時の陽一郎の苦労といちご作りを導いてくれた陽一郎園創設者の父陽一郎に感謝と尊敬の念をこめて、この文を記させていただきました。
農業生産法人 有限会社 STRAWBERRY FARM 陽一郎園
代表取締役 大畠篤司